へかわがみってどんな紙?

2018/1/30 記

 

 あと一週間で2018年という頃に、地元のNHKから取材の話がありました。

秋にもお断りしたのですが、今は繁忙期でとの返事にいつならいいのか聞かれ、天候次第だったりする原料自給を含めた一個人の作業が予定通りに行くはずもなく、あと伸ばしにしたくなく1月11日に取材を受けました。
 16日の放送を見て落胆したのは、視聴者受けするように変えて伝えられている部分が多いことでした。もう当面は取材を受ける必要はないのだと思います。

 作る側は「幻の特別な紙。つやがある美しい紙だったろうと、思いを馳せているんですね」と言ったのだけど、私は最初からそんなふうに思ったことは一度もありません。
そんなに魅力的な紙なら簡単に廃れるはずもなく、また細々とでもどこかで継承されたり語り草になっているだろうと思うのです。
 現存する紙は一度生産を止めて久しかったものが、第2次世界大戦のおりの紙不足でにっちもさっちもいかなくなった昭和19年に、作り方を知っていた方中心になって漉き、役所や寺社、地域の方々が入手されたものです。

手に取ってみると拍子抜けするほど雑に見えるのですが、紙不足時の実用性のみで作られた紙だったのだろうと思われます。

それ以前のへかわがみやかりやがみは、1661年の盛岡藩の雑書に記録のある通り、江戸時代には盛岡藩にも納められていたので、その紙を使った文献もあるとは予想しますが、紙に、紙の名前が記載されているわけでもないのでこれがそうだと提示できないと思われます。

他地域の諸藩が力を入れて推奨した紙だとか、保護されて現在に至っている紙のようなら、語り伝えられていることがあると思うのです。

そういうことがなく、洋紙推奨のあおりで容易に消えたのは、漉く農家が個で対応し、次の作物などに静かに移行していったからと考えています。

そういう紙は、可もなく不可もなく主張ももしない紙だったのかな~。もしどこからか、へかわがみと印の付いた紙が見つかったら、見たい触りたい私の妄想を満たしてくれるものになるでしょう。

 

 

 

紙漉き屋 群青の 閉伊川紙(へかわがみ)のこと

2017/3/23 記

 私の漉いてる手漉き和紙は、「へかわがみ」。

 昔の「へかわがみ」が途絶えて、きちんと伝承されていないから、この呼び名を使っていいか、随分迷いました。
でも、まったく違う名前なら、昔あった「へかわがみ」を伝えにくいと考え「へかわがみ」を使わせていただくことにしました。
そして、亀のようにのろい歩みなのですが、一応昔の「へかわがみ」のことも探ってみています。
 それによると、今、合併によって宮古市になっている旧川井村にも、吉部沢とか小国地区、箱石地区で営まれていた記録があり、 旧川井村の「へかわがみ」は「戸川紙」と表記されています。
  旧新里村の「へかわがみ」は、主に蟇目、刈屋、で和紙を、原料の楮(コウゾ)は、腹帯や和井内、刈屋地区でも納めたと宮古通り代官所の記録にありました。

で、こちらの「へかわがみ」の書き方は「川紙」「河紙」があります。もっとも、代官所の記録には「紙」という表記なので、村史や大先輩が書かれたものに寄ります。

 

 宮古市の市史編纂室長さんにどちらの漢字が本来だろうかと伺ったことがあります。

 「昔は文字を読めない人もたくさんいて、音で耳から伝わったものが多いです。だから聞いた人の中の書ける人が、こうかな?って書いたものが通っていくことはよくあったみたいです。へかわがみの場合もそういうことでしょうね。」

 

 私の紙も、音で「へかわがみ」。悩んだことは、昔の紙漉きさんから伝承されていないことでした。

ごくオーソドックスな手漉き和紙の製法と東山町に伝わっている東山和紙の職人さんから教えて頂いたこと、東和町の成島和紙、白石の白石和紙や横手市の十文字和紙の皆さんと話してみて、東北の寒村で作ったであろう紙を想像して漉いているのが現状です。

厳密に言えば現代の私のオリジナルであることは否めません。

そういうことで、現代の漢字の「閉伊川」を使わせていただいて「閉伊川紙」という漢字を充てました。

これを「へかわがみ」と読んでいただくのは説明が必要になるのだけど、それこそが私の紙漉きで一番重要な部分であるかもしれません。

使われたカヤツリクサのこと

2015/12月   記

東山和紙では紙床に重ねた紙の間には何も挿みませんでした。

 

ところが、閉伊川紙の北閉伊地方では挿んでいた痕が紙に残っています。

そして、薄くぺったんこになった草が簀と一緒に残っています。

その辺に生えているイグサの種類と伺いました。

 山形県の高松和紙を訪れた時に、同じにぺたんこになった見覚えのある草がありました、漉き上げた紙を重ねる時に挿んでいた「くご草」と伺い、うれしくなりました。

「くご草」をネットで調べたところ、「くぐ草」だと思うという記述があり、くぐ草は「莎草」と書き、カヤツリグサの古語であると記述がありました。

 

私の語り継ぎたい閉伊川紙はこんなふうにして辿っていくのだと思います。

実際に漉いてみて漉いてみて、残っているものとの感触の違いを感じ、他の地域の紙漉きを見せていただいて推考してみる ・・・

正解のない謎解きみたいですがもう少し経験を積んだら、もっと文献を読んだら気付くことがあるように思います

2017/01/11記




現存するもの①・・・必要に応じて漉かれた昭和19、20年の紙

昭和20年の閉伊川紙
昭和20年の閉伊川紙

現存するもの②…漉き簀(すきす)


宮古市教育委員会文化課所有
宮古市教育委員会文化課所有

旧新里村時代に茂市駅前の新里村民俗資料館に展示され、現在は川井地区にある北上山地民俗資料館に保管されている。

 

左の黒っぽい裂けた簀に包まれているのは、漉いた紙を紙床に積み上げていくときに1枚ごとに間に挟んだ「イグサ」だという。使われて使われて…ペタンコのヒロヒロになっている。

両手に余る量だが何枚分の漉き簀だったろうか。

静かに広げてみたが、完全な形のまま残っている物は1枚もない。

竹簀のほかに萱簀もあった。

拡大してみると・・・

真上から
真上から
付いてる繊維はいつ取れた楮だろう
付いてる繊維はいつ取れた楮だろう

クモの巣だらけで汚い! と、叫ばれそうだけど…

私にとってはお宝の、使用していた当時の繊維付き。

明治のものか、はたまた戦争当時に1度復活させた昭和 20年頃の繊維か、今となっては誰も判らない。

願わくば、静かにお湯にひたして繊維を採取し、流水できれいに洗ってみたいと思う。