①.....辿ること

 

 

昭和20年あたりですっかり途絶えた閉伊川紙のことを語り継ぎたい!

そう思い立った時から、そろそろ10年になろうとしています。

閉伊川紙を漉いた方はもちろん、工程を全部知ってる方もおらず、ずいぶん悶々としました。

 

基本的な紙の漉き方を東京の紙漉師に伺った後、岩手県一関市東山町の東山和紙の短期講習を受けました。

習ったのは東山和紙で閉伊川紙ではないのだと何度も考えました。

それでも紙を漉かないことには一歩も前に進めないのです。

東山和紙、東和町の成島和紙、秋田県横手市の十文字和紙・・・これらの産地が近いことや生活の営みが似通っていたのではないか等々、和紙を漉いていた頃の生活の様子を想像しながら模索しています。

 

頂戴して保管している、昭和20年当時(戦争時)に漉かれた紙をそっとちぎってみると、紙の目の縦方向が裂け易いですが、横揺すりを全くしなかった紙よりは抵抗があるように思います。

それから、縦方向の切れ目の繊維の長さは横方向の切れ目より繊維が長く、いっぱい出ています。

もったいなくてじゃりじゃり裂いてみる勇気はないから、裏付けには値しませんが、縦揺すりの間に少し横揺すりを入れたように思います。

 

2017/01/11編集

 

 

②.....地元産へのこだわり

初めてであった5月の楮
初めてであった5月の楮

紙漉き業界のお話を聞くと、和紙なのに原料が外国製だったりすることがあります。

それはもう高齢で原料処理が難しいとか、品質があまり変わらないなら安価なほうが良いとか、食べていくためにやむおえないことなのだろうと思います。

 

私の場合は、体力も腕力も衰えを感じる頃に始めたのですが、漉き方や加工の方法は残されていないので模索しています。

そういう状態で閉伊川紙を辿るのであれば、原料だけは地域に残る楮を使いたいと思いました。

 

地域に残る楮を伐らせてもらいながら、根っこを少しずつ移植しました。

地元産がまだ不足だった2011年ごろは地元産と、高知県の原料商から求めた土佐楮を混ぜて使いました。

「土佐楮80%、宮古産楮20%」

 

いつか宮古産楮をえばって前に書ける日がきて、いつか宮古産楮100%の表示にできたら…と思っていたのですが、宮古市鴨崎町内の畑は楮と相性が良く、すくすく育って増え、2014年には「宮古産100%」の表示ができるようになっています。  

技術を受け継ぐことができなくて、原料までどっかから持ってきたら、閉伊川紙のこと胸張って伝えることができないように思っていましたが、宮古産100%で作れることは心のよりどころになっれいます。

 

2017/01/11記